行き摩り

虚構日記

2017/06/12 曇り時々雨

待ち合わせ時間の決定が当日。どちらかは必ず遅刻して来る。

 

顔を合わせなくなって暫くになる相棒と、漸く飯を食う時間が出来た。手渡したい物を持って勇み足で池袋に着く。華々しかった、画面の中だけの街は、今では庭のように通い慣れて、いつからだったか、こんな風にここで待つことにも、慣れている。下から覗き込まれるようにして現れた彼女は、相変わらずといった様子だった。声も笑顔も心地良い。いつになったら歳をとるのか。相棒と会う時、余り挨拶を用意しない。しなくても良いのはこいつくらいだから、私はそういう時のために、気を抜く。私は、池袋ではここがパスタが美味しいのだと言って、店に連れていく。こんな未来が想像できたか。

 

創作の話を、口に出すだけですぐに理解してくれるのは1人だけなので、思いつくままにそれを喋って、食べるものを注文する。現況報告をしあって(最近どうなんだ、という言葉で始まるものではなかった)、二人して頼んだカルボナーラを早々に食い終わって、三時間、喋り続けた。

 

相棒は、私が本当に怖がりで、自衛が好きで、いつも死にたいことを知っている。ほかの誰も知らないような恥ずかしいことも。だから恐らく、誰よりも気の置けない人間で、肩の荷が降りる。仕事、大学、周辺の人、その他のコミュニティで私が恐怖している、何に恐怖しているか、それを初めて言ってしまえたのも、その所為だった。多分それを聞いておざなりにしないのも、笑わないのも、私という人間の恐怖心のあり方を理解して言葉を返してくるのも、相棒しかいなかった。そう出来るのが私の今までの人生でこいつしかいないのを、私は多分今日気が付いた。溜まるだけだった泥水が、細い逃げ道を得ている。

  

死んだら、今までの私の絵を、横並べにして大桟橋に張り出すらしい。まずい、まだ死ねない。「死にたくない」と口に出すことには、腹の底を抉られるような孤独感があり、腹の底の溜まり水を捨てるような開放感があった。

2017/06/05 晴れ

インスタント食品に注ぐ湯はいつも沸かしすぎて少し余る。シンクに捨てると音を立てて金属が歪む。あんなに腹が減っていたのに、口に入れると吐き気がする。僕は水を飲んで、みんな流し込む。固形物が胃の中で暴れ回る。部屋の中は寒くて二の腕に鳥肌が立つ。頭を弄って、不健康な肌に日焼け止めを塗る。痛いのが嫌だ。息を吸えなくなった皮膚が苦しそうにしている。

 

悔しい。生きていることが悔しい。ただ、両足を付いて、僕は枝のように立っている。ここから何も動いていない。なにもない。競わせるなら自分が一番らしい。同じ脳味噌でないと話にならないからだ。食ってきたものも、吸ってきた空気も、みんな違うからだ。持っている毒も、隠している芯も、違う。大事にしたいものも違う。誰も、誰かとは戦えない。僕は誰にも太刀打ちできない。悔しい。僕が太刀打ちしたかった人たちは、一体何を対価に呼吸をしてきたんだろう。何を担保に今まで生きていたのだろう。僕がこんなに惨めなのは、ひょっとして大事な時に対価を、差し出せずに来てしまったからなのだろうか。

 

「俺もお前も、多分一生苦しむよ」

心の頼りにしていた友人の言葉がいつも頭から離れない。

「何かを作り続けている限り。ここは地獄だ」

離れない。

地獄だ。いつも苦しんで、そこには居ない誰かに嫉妬して、悔しがって、いつまでも終わらない、深い場所にいる。あいつはギターを弾くために、重要だった何かを捨ててどこかに弟子入りした。僕は? ここにいる。蜘蛛の糸が、首に引っかかる。顔に纒わり付く。僕は無様に爪を喰い込ませて、皮膚から鬱陶しいものを、とる。引き剥がす。生きるのが嫌だ。死ぬのも、嫌だ。ここは地獄だ。あいつは正しかった。

2017/06/03 晴れ

「夏だ。暑さの匂いがする。早朝の日陰にだけある清涼な風が、熱くなる予感をさせている。空が広く大きくて、それが真っ青に広がっている。大きく積み上げられた分厚い入道雲が見える。いい匂いがする。いい色をしている。恋しい。夏を信じていた。暑さが嫌いだった僕は死んでいた」

「引越して一週間経過。ものが入ったままのダンボールが5つくらい台所に置いてある。先住者の残した煙草の臭いを消すために、6日前に無印良品で買ったシトラスは、香りは清涼なのに、いつも生温い。7:30。全ての感情を諦めて家を出る」

「とてもではないが、こんな気持ちでは良いことというのは起こらない。良いことというのは起こらないのではなくて気付けないからそこに存在しないように見えるだけなのだ、そう理解はしているのだけれども、やっぱり今日は何もなかった。何をしていても、思い出しても、眉間に皺は寄るし左下を向きたくなる。おまけに鞄には財布が見当たらない。Suicaでご飯を食べながら、腹が立つことを思い出す。やっぱり腹が立つと思う。いつまでたっても」

 

「面と向かって物申されても傷は負うが、結局どこでだって誰かに何かを言われたらそのうち大きな傷になる。『言葉は猛獣。解き放ったら戻ってこない』」

 

「肺の下の方と腹の中央と喉の奥に熱の塊を抱えている。身体が痛いので何も摂取したくないと感じる。誰にも悪気がないのに、勝手に僕の唇の皮は剥けていく。みんな並列に毒を持っていることを僕は知らずにいた。どんなに近くても、血が流れていても、理解はし合えない。口が裂けていく。恐ろしい。 違う人間であることが」

 

「仕事が終わる。険悪な空気が途端に立ち上り始める。口調と共に運転が荒くなる、気が気ではない。僕はまだ、一員でも何でもないから、怒りが湧いてこないのかもしれない。それは少しほっとするし、僕が蚊帳の外であることを嫌でも感じる。僕は僕がどうしたいのかがわからないので、困惑しながら、車酔いをやり過ごす」

 

幸せを残すことはとても難しい。嘘臭くなる。謎か、虚構か、さみしさだけが、僕達が本当の意味で残すことが出来るものの種類だと思う。

2017/05/11 快晴

「僕の思うところでいう田舎といえば南なので、今日は1日、南下しているような日だった。暑さといえば夏だし、夏といえば南で、日差しといえば海だった。赤虫と言えば田舎で、コンクリートといえば陽炎で、それこそが夏だった。雲の低いのも、分厚い風も、土と葉っぱと海底のような匂いも全部それだった。そして夏は、疲れる。

 

熱線は皮膚を捲るような角度だ。真っ直ぐに差し込んで、僕の項と、七分袖だけ、どうにも助からない。陽炎はまだ息を潜めている。僕は人差し指と親指の肉で水をあけた。こめかみが擽ったい。汗が、た、た、と落ちていく。

 

夏というのはつまり記憶だった。僕の頭の中には、いつも何かの濁流があって、それが、夏の間は夏にすり変わっている。とても重大なことだ。塀を登る蔦植物が瞬く間に積乱雲に喰われていく。その光景は心地よくて、言わば歌だった。ファルセットが脳の後ろを突き抜けていく。無言の僕の耳殻に響くのは、恐ろしい事に女声だった。」

2017/05/09 曇り

夢。1人ずつ、罠に嵌めていく。何食わぬ顔をして。憂さ晴らしだ。表彰台のような、マイクスタンドの前、私の場所だったはずの、そこに私も立ちたかったのだ。未練。次は仕返しのように、知識問題で命を奪われる舞台だった。

 

あまりにも気圧が影響していた。晴れだった昨日の朝からずっと頭痛がしていたのに、今日は気圧で更に頭痛が酷い。一日これと付き合うのかと思うと頭が痛くなる。画面を見る元気さも体力も無く、眼球は奥が痛むし、原稿を進められるような体調では少しもなかった。

 

今日はもう駄目な日だ。できるだけ家事をしてバスに飛び乗る。危うく乗り逃しそうになったのでそう思った。腹が痛い。頭もまだ痛い。小学生が夕方の押しボタン式横断歩道(いかにも田舎ではないか)の前に溜まっていた。初めて、即時式のボタンでないことに気がついた。私が夜しかボタンを押さないことにも。

 

今日のことは一ヶ月前から約束されていたことだった。されていたというのは、今日は高校の頃からよくしてくれている後輩が、酒を飲みたいというので、それでは、と店を用意したのだった。実に一年ぶりの再開だが、顔を合わせてしまえば、私は生徒会長で、彼女も生徒会長だった。

飲みの席は楽しかった。「ビールは飲めない」と言うので、「そんな不味いものは飲まなくても良い」と、サワーとカクテルを飲むことになった。話はそれなりに弾んで、相手には彼氏はおらず、男にも気持ちが悪くなってしまうということを知った。私はそれを慰めたし、私もそれで慰められた。大人になったのだと思って、馬鹿だ、もうずっと大人だった。そうやって2時間は1コマよりも早く過ぎた。また、LINEで私は「やっぱり良い人」なのだと言うことも知った。後輩にとって「良い人」であれたのは、良かった。

 

エナメルの合皮靴を脱いで、買ったばかりの皮のベルトを緩める。頭の痛さが割増ている。同じように頭痛に唸って転がっている彼女の瞳には宇宙。教えてもらったことだ。覚えておきたいと思ったものはなるべく覚えておきたかった。

2017/05/02 晴れ

健康診断をする部屋はどこだっけ。施設には毎日のようにくるのだが、違う棟になると、突然に分からなくなる。すれ違う人たちはみんな忙しそうだし、スーツを着ている。もう、いつもスーツを着ているのも当たり前になってしまった。こんな社会では無理もない。A-5、この部屋だ。ノブを回して慎重に入ろうとする……と、名前を呼ばれる。「はい?」

 

「君、さっきは危なかったですよ。次、同じことがあったら」

「はあ……すみません」

 

威圧的な口調だ。近頃の周囲の人たちはいつもこうだ。自分が自分の命の保証を出来る、というだけで、あらゆる権利が与えられているようなものなのである。サングラスの向こう側に全て隠して、長身が私のことを見下ろしてくる。心を握り潰されるような気持ちだ。知らぬふりをして、会釈をする。

 

扉を開けると、拳銃を構えた列が3つあった。またこれか。彼らの視線の先には簡易的な的がある。もちろん皆一様にスーツ。「すみません、通ります」大声で、前を横切る。自分が撃たれても文句は言えないから、せめて存在を主張する。誰も逆らえないのだ。

 

診断申請書には、まず、名前と、住所の欄がある。私は懐からボールペンを取り出す。緊張して名前を何度も書き損じた。転居はしていなかったので、住所の欄は未記入で進む。命に保証を持ってもらえない社会は大変だ。健康診断を受けるだけでも、「命の保証は致しかねます。ご了承ください」のチェックボックスにレの字を入れなければいけない。

 

それから、直近で食った飯を2日分記入する。オムライスと、唐揚げではなくて……ハンバーグと、半ラーメン、とんこつだ。それから一昨日は寿司。なんだか文字がラーメンの麺に見えてきた。こんなぐにゃぐにゃで、書類として意味があるのか? 醤油のつゆに浮かぶ麺を啜る。左隣のデスクで、女の子たちが楽しそうに記入している。私は1人で、無茶苦茶な気持ちになる。

 

もう一度記入し直して、漸く、一番右の質問欄に到達する。早く書き終えてしまいたい。

 

「昨日、一昨日に果たして意味があったのでしょうか。」

 

ばかばかしい! 私は声を出して言ったし、笑った。拳銃を構えた人達が驚いて発砲した。意味がなかったらなんだというのだ! 意味を求めないのは貴方達じゃないか。人の命をなんだと思っているんだ。私達はせめて殺されないように、実力者に媚を売るしかないんだ。そうやって生きることに意味が? あるわけない。

私はボールペンを持ち直して、3倍くらいの大きさの字で書く。

 

「人と関わることの大切さを確認しました。また、……」

2017/04/29 晴れ

笑ってほしいのだが今日は早朝に起きた。支度は前日に済ませていたし、起床して服を変えて、多少髪なり何なりいじって、寒いけど家を出る。緊張して胃が気持ち悪い。バスも電車も何で揺れるんだろう。朝早いのにどうしてこんなに人が多いんだろう。降りるとすぐに分かることだった。同じ場所を目指している人たちだった。超会議。

 

とにかく気持ちが悪かったのでさっぱりしたものを食べたくて、レモンケーキと、ホットミルクで朝食にする。でも失敗だった。美味いけどこれはご飯じゃない。なにか重大なものを忘れていそうだった。首筋の太い血管が詰まってしまったような気分がしている。

 

ほら、ほら、と時間に足蹴にされるように準備をして、スペースに敷き詰められるようにして並ぶと、いつの間にか始まっていた。奇妙な感覚だった。昨日は、こうなると泣いてしまうかもしれないとずっと考えていたし、今朝も、パイプ椅子に座ってからもそう思っていた。し、初めて自分のものを手に取ってもらった時に、陳腐だけど、非常に、込み上がるものがあった。私がもし、いつも幸せを単純に感じることが出来たら、きっとこの心がずっと続いていたのだろうし、それはとても幸せなことなんだろう。こっそり錨の先をみてやり過ごす。

 

もう元気がなくて体力もなかったので、衣装に着替えるのは早々に諦めて、後は私の友人を待った。サークルとして入場した私達は、思いのほかすんなりと入れたし、真っ直ぐここまで来れたが、彼らは違う。今日は晴れているし、水を飲んでいるか、飯は食ったか、そもそも楽しいのか? など、奇妙な浮遊感に苛まれながら、それでも多分浮いているだけ、私は楽しんでいた。浮かれて待っているのだ。その、肯定的な言葉がなければ、そのままでは私は腐って何処かに消えていただろうと思う。恐らく、ものを作る事も早いうちに辞めていた。燻って潰れてしまう恐怖は、目に見えて触れてくれる人が本当に数人いるだけで何とでもなるし、構わないのだという。私の場合も、本当はそうなのかもしれなかった。時間いっぱいとにかく忙しく過ごして、友人も迎えて、でも私はあまりブースを留守にはできなかったので、一言二言交わして、遂にイベントは終わってしまった。

 

帰る。一日中失言ばかりをしていた私の4/29は終わる。終わるというのはさみしいことだ。一日ずつ死んでいくのだから、なるべくなら私の生きがいを終わらせないようにしたいと思った。まだだめだ。